ピエール・ルメートル『その女アレックス』(2)

 こちらはネタバレ的なことを少し。


 最後、全てが明らかになる。物語の結論に対して賛否あるようだが、私はこの結末をとても気に入っている。アレックスは、本当につらい、胸の痛む、悲しい結末を自ら選び取る。そこには人生を正しく清算したいという強力な意思が通っていて、その意思の強さは全編を通じて、「彼女ならさもありなん」と思わせるに十分な強度を持っている。しかしその意思を鑑みても、それはやはり悲しい結末だ。最後まで読んで、彼女に何が起こったのかを知った後に思い返すと、なおのことあの最後のシーンは胸に迫る。鏡に自らの姿を映し、背後を向いて、そして自ら死ぬ過程を描きだしたあの部分は、何年も忘れられないものになりそうだ。

 ラストシーンで、主人公の刑事カミーユがこれまでやってきた操作が自らの悲惨な過去からの恢復であることを語るシーンがある。カミーユは、アレックスという一人の人間、ついに生きて会うことのなかった女性の「輪郭」を、文字通り描き出そうとする過程の中で、自分の人生をもう一度取り戻す。それは魂を損なわれた二人の人間の、孤独な孤独なモノローグの積み重ねだと言える。しかしその二人の狂気じみた魂の探索こそが、アレックスが選んだ孤独な結末を、あるいはカミーユが逃れられない過去の後悔を、時空間を超えた対話へと変える。カミーユは最初被害者を、次に被疑者を、最後にもう一度、魂を滅ぼされた被害者の輪郭を、事件を追いながら丹念に積み重ねていく。それはいわば、アレックスの孤独がほんのわずかに報われたことを意味する。自らの魂をかけた復讐の意味合いを、誰かが丹念に読み解いてくれれば、最後には死ぬことを避けられないにせよ、それにはやった意味があるだろう。自分がもし罪を犯したとして、その罪を犯すに至った理路を誰かがわかってくれるならば、それは救いになるのだろう。その疑似体験的な対話を通じて、読者はそこに時間を超越した対話の可能性を感じることができる。つまり今度は、読者とテクストの対話の可能性。開かれているものと閉じられているものを通じた言葉の交流。そのような体験が示唆されるからこそ、本は読まれるし、読まれうるのだろうと感じる。