写真を撮るということ、捨てられたものと掬われたものと。

 自分がなぜ、写真を撮るようになったのか、きっかけ自体は単純なもので人から勧められたからだった。しかし、なぜ私は撮り続けるのか、そこがずっと私自身にもわからない部分だった。単純に撮影という行為自体が楽しいというのもあるし、撮った写真が徐々に上手くなっていく実感を得られやすいというのも確かだし、他にやることがなかったというのも確かだ。しかしそういう理由はどこか中心から少しずれているような気がしていて、この四年間ほど折に触れてなぜだろうとなんども思ったのだけれど、今日ついになんとなくその理由がわかった気がした。多分それは、私が文字に生きてきたからだろうと思う。

 小学生に入る前から鍵っ子だった私は、家に帰っても誰もいないので、小学校の低学年の頃から地元の図書館に毎日のように行くようになった。そこで多くの本を読むうちに、本を読むという行為が私にとって自然なことになってしまった。読書という行為は、突き詰めれば記号との戯れだ。どのように詳細に描かれた物事も、どんなにリアリティのある表現も、それらは記号を媒介とした象徴交換の儀式にすぎない。そして読書に慣れ親しむというのは、高濃度に圧縮された象徴的な意味合いを、効率よく摂取できるようになるということに他ならない。文学研究とは、この圧縮されているはずの意味を解きほぐして、いわばより圧縮率の低い、できるだけ現実性と馴染みやすい良い方へと変換する作業のことなのだ。私が生業として従事しているのは、そのような圧縮濃度の変換作業であるのだが、ここに一つの陥穽がある。どれだけ圧縮率を下げても、結局のところ文字はやはり象徴的な記号でしかないということだ。何かが描かれるたびに、イデアとして対象とされている「意味」は、高度に圧縮され、余剰は捨てられていく。もちろん、神のような理解力を持った理想的な読者を想定するならば、0度のエクリチュールのような「生の意味」、取捨された余剰が全て復元された現実そのものの意味を、象徴から取り出すことができるのだろう。しかし神ならぬ人間にそれは不可能だ。我々は、言葉を使うたびに、いわば意味を取得しつつ/失っていく。

 多分私は、その行為で捨てられていくものを、世界を見るという行為を通じて補完したかったのだと思う。

 あるとき、私はシャッターを押しながら気づく。空の色合いはこんなにも豊かな色彩で構成されていたことを。私がこれまで知っていた空は、誰かの感情を表したり、世界の不穏を予兆したり、悲劇の結末を盛り上げるように泣いていたり、それらは全て意味によって充満した文字の空だった。しかし私がこの目で見ている空は、そのような意味とは別の何か。純粋な分光の果てに生まれた、極めて微細な、極めて科学的な、極めて定量的かつ生の、記号の荒さの間から抜けていく情報の渦だった。私はそれに巻き込まれる。なんとかして、その空を取り込もうとして努力する。一枚一枚、シャッターを押すたびにそれらは増えていき、そして消えていく。定着したものも、定着しなかったものもある。積み重ねる。これまで見ていなかった色を私は世界の中に見ていく。

 その快楽、落ちていた部分を初めてしる喜び。それが私の写真の動機になっている。いわば私は、撮影を通じてもう一度世界を生き直しているのだ。楽しくないはずがないではないか。