チェスタトン『木曜日だった男』

 探偵小説が本当に好きだった頃、一日に一冊という勢いで読んでいたような時期があって、その時に読んでいたのは主に日本の現代の探偵小説だった。そこから過去に戻って行って何はともあれポーを読んで、そしてドイルを読んで、さらにクリスティやヴァンダインやガストン・ルルーなんかをつまみ食いして、という風に読んで行く中で、どうにもこうにも馴染めなかったのがチェスタトンだった。ブラウン神父シリーズで有名なこの作家は、典型的なイギリス小説の流れを背負った作家で、そのイギリス的にきちんとした書きぶりが、基本的には逸脱が好きで、きちんとしていることが嫌いだった当時の私には我慢ならなかったのだ。だからずっとチェスタトンを敬遠して来た。あれから18年程が経った。長い時間だ。
 久しぶりに読み返してみたらあまりに面白く、チェスタトンの構成力の高さ(少し古風だが)に感心した。その時代の思想潮流を上手く取り込んで擬人化しつつ読ませる手管は、現代の推理作家たちのそれよりも何倍もスマートで、探偵小説の作家たち(や探偵たち)が歴史学民俗学量子力学や医学やらの知識をひけらかしたくなるのも仕方がないような気持ちになった。まるでそれらが小説を駆動しているかのように見えるからだ。あるいはそれは探偵や作家の全能性を指示する記号のように思えてしまうだろうからだ。しかしチェスタトンの卓越しているところはそのような博学ではなくて、その博学を物語の構成とテーマに配置するバランス感覚の方で、それは殆ど古典的な形で冒頭からの二人の詩人のやり取りの中に結晶化されている。その結晶の濃度が、物語全体の核心にあるから、物語は強烈な吸引力を持つ。こういうところの上手さこそ、まさにイギリスなのだ。統制され、物語が生かされる。夕陽のロンドンが赤く焼け付く。テムズ川の微かな19世紀の酒と汚泥と血の匂いが、漂う。
 私が主に研究しているアメリカではこうはいかない。アメリカ人が物語の面白さを見つけることは、ついに現代に至るまでなかったと言っても良い。基本的には短い説話を抜群の話術で「聞かせる」のがアメリカ小説だ。それはワシントン・アーヴィングアメリカ小説黎明期から、現代のコーマック・マッカーシーに至るまで変わることのない基本的なアメリカの魅力だ。しかしマーク・トウェインを見てみると良い。あるいはメルヴィルでもホーソーンでもフォークナーでもヘミングウェイでもいい。長い小説を、ただひたすら頁をめくらせる吸引力だけで読ませきるような小説を誰が書いた?誰も書いていない。イギリス小説がすでにアフラ・ヴェーンやメアリー・シェリーの段階、18世紀の段階で見つけたそれを、アメリカは長い間持ち得なかった。チェスタトンを見ればそれがよくわかる。物語を構成することの骨組みの卓越がよくわかる。

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

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