パンツの中の手紙

 TwitterのTLにクラリッサの全訳が流れて来て、ふと思い出したのがタイトルの話。同じサミュエル・リチャードソンが書いた『パミラ』という書簡体小説の中に出てくるエピソードなのだけれど、主人公である奉公人パミラが、自分の書いた手紙を主人であるミスターBに読まれないために、パンツの中に手紙を隠すというエピソード。もの凄く馬鹿げているのだけど、このエピソードが面白いのはここにテクストの多層性というのが濃縮されているという点。主人公は自分の貞操が主人のミスターBによって犯されることに対して恐怖心を抱いていて、その一方で自分の手紙がまたミスターBの検閲にさらされていることに対しても、酷く嫌悪を抱いている。自己の身体と、自己のテクストという二重のアイデンティティを「レイプ」という行為から守るために、まさにその目的となる場所、手紙と性器、という男にとっての二重の目的が、このエピソードの中で重ねあわされている。これってもの凄く面白い手管で、小説の持っている煽情性が、ここで極まっているといっても過言ではないし、一方で、この時代の「小説」っていうのがどういうものであったのかをよく示してもいる。
 リチャードソンの『パミラ』という小説は、一応最初の近代小説という肩書きが与えられているのだけど、その主な理由はそれまでの文学的テクストが基本的には神話とか民話を下敷きにして描かれていたのに対して、この小説がそういう歴史的な源泉を持たない、純粋なフィクションとして描かれたところによる。しかしその一方、この作品が上梓された時代には、まだ「小説」なるジャンルは存在していなかった。全てが作り物である作り話が、大衆にカタルシスを与えるという文脈自体が成立していなくて、そのためにこの作品は、冒頭で「これはすべて実際にいる人物の書いた本物の手紙に基づいて作られた作品です」と宣言してしまっている。つまり、フィクションで「ない」という宣言をしている。なんでこんな宣言をしたかというと、上に書いたように、「偽物の話を楽しむ」という文脈が存在していなかったから。なんらかの歴史的源泉を持たない物語に、価値が認められていなかったということ。だから、リチャードソンは、自分の作品が実際の人物の書いたものだと、読者を「誘った」わけだ。自分の作品を、例えばニュース記事やら新聞記事といった、事実に基づいて作られたテクストと同列に読んでもらうために、読者をだましたわけです。
 ここで、リチャードソンは逆に二重のテクストの旨味を利用して、読者の下世話な欲求を満たしている。一つにはフィクションだからなんでも書き放題で、自分の都合の良いように話を作り上げることが出来る。だからこそ、パンツの中に手紙を隠すなんていう、阿呆極まりないエピソードが出てくる訳だ。一方、それを読む読者の側は、これらの話の全てを「真実のもの」と了解して読んでしまっている。本当の話と思って読む。つまり「覗き見趣味」というやつで、これは古来から現代に至るまで、我々一般人が最も好む類いの話になる。リチャードソンは大衆の性質をよくわかっていて、徹底的にゲスい主人公と、性的コノテーションに溢れた「いやよいやよ」の馬鹿げたセックス法螺話を、「ほんとにあった話」として、見事に作り上げた。
 テクストには、時代の要求がコンテクストとして張り付いているわけで、むしろテクストは常にコンテクストから派生する形で成立する。フーコーなんか呼ばなくたって、これはいつだってそう。だけど、リチャードソンのすごいところは、初めの小説にして、そのようなコンテクスト自体のメタ的な位置づけを上手く取り込んでしまっていることなんですな。まあ、普通に読んだらアホな下らん話ではあるんだけど、歴史的前提を頭に入れて読むと面白い。

[第1巻 メロドラマ] パミラ、あるいは淑徳の報い (英国十八世紀文学叢書)

[第1巻 メロドラマ] パミラ、あるいは淑徳の報い (英国十八世紀文学叢書)

チェスタトン『木曜日だった男』

 探偵小説が本当に好きだった頃、一日に一冊という勢いで読んでいたような時期があって、その時に読んでいたのは主に日本の現代の探偵小説だった。そこから過去に戻って行って何はともあれポーを読んで、そしてドイルを読んで、さらにクリスティやヴァンダインやガストン・ルルーなんかをつまみ食いして、という風に読んで行く中で、どうにもこうにも馴染めなかったのがチェスタトンだった。ブラウン神父シリーズで有名なこの作家は、典型的なイギリス小説の流れを背負った作家で、そのイギリス的にきちんとした書きぶりが、基本的には逸脱が好きで、きちんとしていることが嫌いだった当時の私には我慢ならなかったのだ。だからずっとチェスタトンを敬遠して来た。あれから18年程が経った。長い時間だ。
 久しぶりに読み返してみたらあまりに面白く、チェスタトンの構成力の高さ(少し古風だが)に感心した。その時代の思想潮流を上手く取り込んで擬人化しつつ読ませる手管は、現代の推理作家たちのそれよりも何倍もスマートで、探偵小説の作家たち(や探偵たち)が歴史学民俗学量子力学や医学やらの知識をひけらかしたくなるのも仕方がないような気持ちになった。まるでそれらが小説を駆動しているかのように見えるからだ。あるいはそれは探偵や作家の全能性を指示する記号のように思えてしまうだろうからだ。しかしチェスタトンの卓越しているところはそのような博学ではなくて、その博学を物語の構成とテーマに配置するバランス感覚の方で、それは殆ど古典的な形で冒頭からの二人の詩人のやり取りの中に結晶化されている。その結晶の濃度が、物語全体の核心にあるから、物語は強烈な吸引力を持つ。こういうところの上手さこそ、まさにイギリスなのだ。統制され、物語が生かされる。夕陽のロンドンが赤く焼け付く。テムズ川の微かな19世紀の酒と汚泥と血の匂いが、漂う。
 私が主に研究しているアメリカではこうはいかない。アメリカ人が物語の面白さを見つけることは、ついに現代に至るまでなかったと言っても良い。基本的には短い説話を抜群の話術で「聞かせる」のがアメリカ小説だ。それはワシントン・アーヴィングアメリカ小説黎明期から、現代のコーマック・マッカーシーに至るまで変わることのない基本的なアメリカの魅力だ。しかしマーク・トウェインを見てみると良い。あるいはメルヴィルでもホーソーンでもフォークナーでもヘミングウェイでもいい。長い小説を、ただひたすら頁をめくらせる吸引力だけで読ませきるような小説を誰が書いた?誰も書いていない。イギリス小説がすでにアフラ・ヴェーンやメアリー・シェリーの段階、18世紀の段階で見つけたそれを、アメリカは長い間持ち得なかった。チェスタトンを見ればそれがよくわかる。物語を構成することの骨組みの卓越がよくわかる。

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)