見える世界


趣味は?と聞かれて、今までは口ごもることが多かったのだが、ここ数年はわりとしゃっきりと「カメラです」といえるようになった。で、撮った写真などを見せたりすると、機材の素晴らしさのためにわりと感心されたりして、そうすると職場なんかでカメラ奉行みたいな位置づけになって、人になんやかんやアドヴァイスしたりなんかもするようになって、というよくあるガジェットオタク的位置づけを獲得したのだけど、今日は驚くことが一つあった。貼付けた二つの写真を使って被写界深度、通称F値と呼ばれる数値について説明していた。上に貼付けた一枚目の写真はF1.4で二枚目はF8。F1.4といえば、カミソリのような薄い被写界深度で、ピントが当たる場所以外は全てボケきるような強烈な写り方をする。一方F8といえば、風景撮りの基本的な値で、見える範囲のほぼ全域にピントがあうようなそういう値。両者の差はモノの写り方に圧倒的な差をもたらし、同じものを撮っていてもまったく別の表現になる、と私は思っていたのだけど、上の二枚の写真を見せながら説明していたら、不思議そうな顔をして相手が一言こういった。

「どこが違うんですか?」

最初は冗談だと思ったのだけど、相手の顔に浮かんでいる表情から、ほんとうにこの上の二つの写真に違いがないように見えるのだということがわかって言葉を失った。結局もっと接写して思いっきりぼかした写真と、もっと離れて完全にパンフォーカスになった写真を使ってその場はちゃんとわかってもらえたのだけど、私の中には驚きの余韻が残った。上の二つの写真の違いを、私は上に書いたみたいに、ことのほか大きな差異として認識していて、一方、そのような差異を全く感知しない人もいる。そしてそれは勿論、感性やらなんやらの優劣の問題ではない。帰属している共同体のエクリチュールの問題なのだった。というか、F値被写界深度という単語が、あたかもチョコボールだとかキノコの山と同じくらいの日常的な言語として流通している場の中にいる人間とそうでない人間では、モノの見え方がまったく変わるということなのだ。もっと言い換えると、言葉や概念が、モノの認識論的な差異の弁別に対して、大きな影響を与えるということなのだった。

なんだ、そんなことは当たり前じゃないか。うん、確かにそれは当たり前だ。私だって37年も生きて来ているわけだから、その程度の素朴な認識論の問題は知っている。しかし、こんな風にもの凄く具体的な形で、形而下の世界で、やはりモノの見え方は全く人によって違うのだとラディカルに示されると、無意識に信頼している足下なんて、思っている以上に簡単に崩れそうだという予感を感じる。

なんだか姑獲鳥の夏を思い出す。