照明弾と村上春樹

 村上春樹があとがきや前書きを付けるのは珍しい。その珍しい「まえがき」の中で、今回の作品集がどのように出来上がったのか、そして彼にとって短編を書くというのがどのような意味をもっているのか、その理由がとても丁寧に書かれている。その最中、ふと村上春樹が使った一つの比喩が気になる。照明弾、という単語。正確な引用はこうだ。

この短い作品『女のいない男たち』を書くにあたってはささやかな個人的なきっかけがあった。そのきっかけがあり、「そうだ、こういうものを書こう」というイメージが自分の中に湧き上がり、ほとんど即興的に淀みなく書き上げてしまった。僕の人生には時としてそういうことがある。何かが起こり、その一瞬の光がまるで照明弾のように、普段は目に見えないまわりの風景を、細部までくっくりと浮かび上がらせる。(10)


一筋の闇を照らす光。短編を書くという作業と人生の進み行きが、村上春樹の中でオーバーラップする。自らを導くような一条の光を、よくあるクリシェのように「月」に喩えるのではなく、村上春樹はこの場所で「照明弾」という単語を選ぶ。限定的ながらも強烈な光量を持ち、目の前の闇を強引に切り裂いて行く光。そしてそれは、闇夜でも問題なく撃てるような暗視スコープ付きのライフル銃のような、近代的な戦争の残響を感じさせる単語でもある。村上春樹がここで選んだこの一つの単語の持っている、些か場に釣り合わないような単語の不吉な響きが、遠い遠い異国で光った稲妻のように、不吉な轟きのわずかな余波を伝える。多分、『神の子どもたちはみな踊る』や、あるいはあの『アンダーグラウンド』や『ねじまき鳥クロニクル』で村上が執拗に描こうとした、我々の世界の核心にある、あの真っ暗な暴力へと繋がって行く余波だ。

 久しぶりに村上春樹の短編を読んだ。まだ読んだのは最初の一遍の『ドライブ・マイ・カー』だけで、その短編はいわば村上春樹のエッセンスのような作品だと感じた。セックスの描写(お得意の、と言ってもいいかもしれないが)自体は出てこないが、それは性的な関係性を軸にした、生と死の問題系といったところだろう。『ノルウェイの森』で大きく示されたテーマでもあり、最初の作品で鼠が「くそっくらえ」とでも言ったであろうテーマであり、そして村上春樹クリシェ的セックスの形として巷間で嘲笑されがちなあのテーマ。ただ、久しぶりに読んでみて、そしておなじみのテーマへと回帰していく村上春樹の筆を改めて体験してみて、私は残念な程に明確に、そして共感を持って、彼の精神の動きを追うことができた。「残念な程」と書いたのは、ここで村上が書こうとしている個人的な痛みや喪失といったものを、私自身が経験してしまったからだ。経験した後に感じるのは、そんな経験など人生になんの恵みももたらさないし、出来るならば村上春樹は「卒業」でもして「普通」に生きられる人生だったなら、どんなにか良かっただろうと思うからだ。喪失、痛み、孤独、怒り、憎悪。それから、何もかもが落ちた後の空疎な疑問。最初の地点。「どうして?」と問う。憎しみがあったほうが、まだしもマシだったかもしれないと思う、答えのない無限の同じ疑問。

 村上春樹が、多分当初から今の今までやってきたこと、そして書いて来たことは、結局のところたった一つのことだったのだろうとようやく思い至る。それは「失われたものはなぜ失われなければならなかったのか」という疑問だ。時にそれは誰かの死の形で問われるし、時にそれは関西弁のイエスタデイの形で問われることもあるだろう。でも問いかけの形と姿勢、言葉や手法は変わったとしても、村上が執拗に戻って行くのは失われたものが失われたことの理由を問うというそのことだ。そして、それは答えが出ないことも最初から分かった上での問いかけなのだ。問題は答えを出すことではなく、シーシュポスのようになんどもその問いを問うという行為の中にこそ存在する。それは忘れようとしても忘れられない問いだからだ。問わないではいられない問いだからだ。それを今の私はわかる。わからなかったほうがずっと良かった。

 一つ目の短編の中で、主人公の家福は、自分の死んだ妻が他の男と寝た理由を最後まで妻に聞けないままでいたことに痛みを感じる。問われないままに置かれたために、彼の中により以上に強い存在感を持ってふくれあがる疑問。相手の男と家福は友だちになり、その理由を探そうと考えるが、結局のところ疑問に答えはでない。時に家福は、その男を徹底的に陥れようとさえ考える。怒りと報復。だが結局それも出来ないまま、怒りの感情も報復の衝動も抜け落ちる。残るのは、最初の疑問のみ。「なぜ妻はあの男と寝たのか」。幸いにして、私は妻を他の男に寝取られた経験はないが、だがより不幸なのは私が抱えた怒りと憎悪はより逃げ場の無いつらいものだったというその点だけだ。だが、事の本質はあまり大きく変わらない。家福が問い、村上春樹が問い、そして私自身が問うこの問いは、永遠に答えがなく、そして問えば問うほどに深みにはまって行くしかない類いのものなのだ。次に問うとき、私はちゃんと問えるのだろうか。

 だからこそ、というべきなのかもしれない。村上春樹は問いを言葉に、物語に還元して行く。比喩化して、その問いを立体的に見えるように言葉の世界を一つ一つ丹念に探検して行く。問いに答えがないのなら、その問い自体をより正確に、そして問われるべき正しい形にするように村上春樹は注力する。彼の文学は、いわばだから、パラフレーズの文学だ。翻訳の文学でもあるし、比喩の文学でもある。内容が常に変わらないのは、村上春樹にはそれしか物語に問うべきものがないからだ。そしてそのような人間は、少なからずこの世界に存在する。いや、むしろ、そのような人間しかこの世界にはいないのかもしれない。なぜなら、この世界には死者が満ちているからだ。そして暴力と喪失に満ち溢れているからだ。一度でもそれを体験した人間は、村上春樹がやってきたように「なぜ」と問うだろう。その問い自体を知らなかった方が良かったことに思い至る。村上春樹の描くフェラチオに苦笑して、やれやれと言っていられた時を懐かしく思い返すだろう。象は平原になんて最初から還らずに、象牙を抜き取られて死んで行くだけなんて、知らなかったほうがよっぽど良かっただろう。しかし、問う立場になったとき、村上春樹の言葉は我々をわずかに導く淡い光のようになるだろう。それは照明弾のような強烈な光ではないが、蛍のそれのように明滅しながら、あてど無く、しかし足元をわずかに照らすだろう。そういえば、村上春樹が最初に「光」について語ったのは「蛍」だった。あれから、ずいぶん長い時間が経った。私の書ける言葉、見える世界、聞こえる音もずいぶん変わった。

女のいない男たち

女のいない男たち