普通であれるというオプション

 どういう経緯でその記事を見たのかは忘れたのだけど、ある作家がモデルと結婚したという話で、そしてその馴れ初めのあたりがつらつらと書かれている記事を読んだ。その時に少し違和感を感じて、その違和感の正体を考えていたのだけど、カレーを作っている最中にその違和感の正体がわかった。一言で言えばそれは「普通であれるというオプション」を周到に準備していることへの違和感だった。
 天才とかつて言われた青年が成熟した作家となること、そのこと自体は問題ないし喜ばしいことだろう。ただ、それをセルフプロデュースするように自から宣伝に使った途端、急に嫌らしさがにじみ出てくる。なれそめはメールのやり取りらしいのだが、彼のような作家ならさぞかし「凝った」文章を書くのかというと、彼いわく「そんな凝ったこと書いても、さむいでしょ?」という。そしてモデルの彼女の方も、「そんなことが書いてあったら逆に引いてた(笑)。象徴的な言葉があったとかよりも、たわいもないことがスムーズにやりとりできたのがよかったのかな」という。まるで打てば響くような賢いお嫁さんになるだろう。二人して「普通であれることの素晴らしさ」を共同でプロデュースしている。二人それぞれの商品価値、コモディティとしての魅力を、最大公約数的に増すための戦略。
 なぜ「凝ったこと」をメールで書くのがさむいんだろう。そしてなぜ、そんなことが書かれていたら、「逆に引いてた」のか。私ならむしろこういう時に、「アホみたいな長いラブレターを彼女に送りました、150頁ほどの。」と言ってくれた方が好感が持てるし、そんな「キモイ」メールを受け取った彼女が、「逆に彼のことを好きになった」と惚気てくれるほうが素敵だと思う。少なくとも、そこにはリスクを冒して相手を愛するロマンが感じられるからだ。彼らの態度には、彼らが天才性、あるいは卓越性、あるいは美しさという「権威」を巧みに保持して、それを敢えてひっこめるという戦略を使うことで、共感されやすいオプションを一般庶民に提供しようという意図が垣間見える。そしてそれは、「おまえらはこういうのが好きなんだろう」という、読んでいる人間に対する強烈な優越感の表出でもある。彼らは世間における強者であることを理解しているし、それをどういう風に利用するかも知っている。必要な時には「普通」も演じられることで、味方を最大限に増やし、敵の可能性を最小限に、事前に排除する。そのオプションの巧みさに対して私は違和感を感じた。そして少し寂しくなった。
 作家はかつて、天才と呼ばれた青年だった。大学在学中に三島由紀夫、あるいはウンベルト・エーコばりの擬古文調で描かれた中世イタリアの僧院での出来事を書いて、若干25歳(だったかな)で芥川賞を受賞。一歳年下の私は、その眩い程の才能に驚き、そしてひっそりと応援もしていた。私は多分、時代遅れの純文学を全身で標榜する、その青臭いロマンティシズムが好きだったのだろう。そんな彼は多分今私より一つ上だから39歳ということになる。14年間で色んなことがあったことは想像に難くないが、一番行って欲しくない方向へと舵を切ってしまった。つまり、現実はつまらなく、超常はもっとつまらないという、一種のニヒリズム。そしてそれは私も一度陥った罠の一つだった。
 もし彼が、この記事自体が単なる戦略上のもので、実はもの凄くダサい、象徴性にあふれた、長編小説のようなラブレターを書いていたらどんなに素敵だったろう。そう思う。そろそろカレーが出来上がる頃だろう。私は私の「普通」を生きなければいけない。